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安全第一

工事現場ではよく「安全第一」という言葉を見かけます。現場で働いている人が安心して作業ができるように、いろんな安全対策が行われます。

例えば、高いところで作業をする場合は、安全帯を締めます。正しく使っていれば、作業員が足場でバランスを崩しても、安全帯が大怪我を防ぎます。また、現場にいる時はヘルメットを被り、頭を落下物から守ります。

安全を図るには、どういう危険があり得るのかを把握しなければいけません。どういう危険が潜んでいるかを理解した上で正しい対策が取れます。また、危険性を把握したあとに、事前に対策を取らなければいけません。なぜなら、危険にさらされてからの対策は手遅れだからです。

もし、現場の監督が仕事に伴う危険を知りながら、作業員に危険について注意しなかったら、どうなりますか?作業員が安全対策を怠けてしまうでしょう。それか、大きな事故が起きるかもしれません。安全帯やヘルメットは危険な状況に陥ってから着用しても無意味です。危険なことが起きる前に準備をしなければいけません。

実は、全ての人が大きな危険に向かっているのを知っていますか?この危険とは、神様の怒りで、聖書は神様の怒りについてこう言っています:

このことをよく知っておきなさい。淫らな者、汚れた者、貪る者は偶像礼拝者であって、こういう者はだれも、キリストと神との御国を受け継ぐことができません。だれにも空しいことばでだまされてはいけません。こういう行いのゆえに、神の怒りは不従順の子らに下るのです。(エペソ人への手紙5章5−6節)

聖書は、本当の神様はただ一人で、その神様が世界を造ったと教えています。また、神様は人間に法律を与えたとも教えています。その法律の一部を見てみましょう:

「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない」(出エジプト記20章3−5節)

もし、聖書の神様以外の神に手を合わせたことがあれば、この法律を破ったことになります。

人の法律を破ると、裁判にかけられて、有罪の者に罰が与えられます。同じように、神様の法律を破ると、神様が下す罰を受けます。聖書は神様の法律を破ることを「罪」呼びます。そして、神様は人の罪のゆえに怒っているのです。

神様の怒りはとても恐ろしいものです。イエス様は次のように警告しました:

「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナ(地獄)で滅ぼすことができる方を恐れなさい。」(マタイの福音書10章28節)

聖書は神様が人をさばく時をすでに定めていると教えています(使徒の働き17章31節)。さばきの日が近づいています。準備できていますか?

想像してみてください、天と地を造った神様の前に立つ時を。あなたは神様に何を言いますか?神様があなたをさばくとき、あなたはどう答えますか?自分が今までしてきたいいことを強調しますか?自分より悪いことをした人がいることを指摘しますか?

こういうこと言っても、判決は変わりません。なぜなら、あなたは自分の行いに応じてさばかれるからです。

もし、たくさんお金をチャリティーに寄付した人が誰かを殺したら、その人の寄付金の額によって罰は軽くなりますか?いいえ。そんなことはありません。裁判所が判断するのは、罪が犯されたかどうかということと、罪の罰だけです。

人が神様の前に立つときに問われるのは、あなたが神様の法律を破ったことがあるのかどうかです。もし、神様の法律を破ったことがあれば、神様の前で有罪となります。そして有罪判決が下りたら、あなたは永遠の苦しみの場所、炎の池に投げ込まれます。これが神様の怒りです。これが人を待ち受けている危険です。

今日、神様の前にたてば、どのような判決が下りますか?

ここまで読んでいただいたところで、神様に対して罪を犯すことは軽いことではないと理解していただけたと思います。また、神様は罪のゆえに怒っておられることお理解していただけたと思います。

この危険を知った上で、何か対策をすることはできるでしょうか?実は、備える方法があります。しかし、知っていただきたいことがあります。私たちが何かをすれば、神の怒りから逃れるわけではありません。

「えっ?」と思った方は、続きを読んでください。

私たちの罪には刑罰があります。このことについて聖書は「罪からくる報酬は死です」と教えています。これは、先ほど見た永遠の苦しみの場所、炎の池を意味しています。

しかし、私たちが自分で神様に対しての罪の刑罰を負っていたとき、神様ご自身が一人の人間となってこの世界にきました。神様が人になった理由は、私たちの代わりに罪の刑罰を負うためでした。

この人はイエス・キリストです。イエス・キリストは、十字架にかかって死んだのは、自分の罪のためではなく、私たちの罪のためでした。

イザヤ書53章5−6節にはこう書かれています:

しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。

また、他の節にはこう書かれています:

神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。(コリント人への手紙 第二 5章21節)

罪を一度も犯さなかったイエス・キリストは全ての人の罪の刑罰を受けてくれました。神様はこのことをイエスの復活(生き返り)によって証明しました。

自分が神様に対して罪を犯したことを認めて、自分で罪を償えないことを認める必要があります。イエス・キリストがあなたの受けるべきさばきと苦しみを身代わりとなって負うために、十字架で死んで三日後に復活したことを信じれば、あなたの罪は神様の怒りを逃れることができます。

自分が神様に対して罪を犯したことを認めなければいけません。そして、自分で罪を償えないことを認める必要があります。また、イエス・キリストがあなたの代わりに、十字架で死んで、三日後に行き変えたことを信じなければいけません。イエスだけに頼り、イエスを信じれば、あなたは神の怒りを逃れることができます。

最後に、聖書の中にあるいくつかの節を見ましょう:

御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。(ヨハネの福音書3章36節)

しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。(ローマ人への手紙5章8節)

あなたが永遠の苦しみを味わわなくてもいいように、イエス・キリストは罪と罪の刑罰から救われる方法を作りました。愛を示すこれほどの行動は他にいるでしょうか?

今日、自分の罪を認めてイエス・キリストを信じますか?